【ストレスで潰されかけた私 海外編 6話 深掘り】

ストレスで潰されそうになったシリーズ 海外編

沈黙が怖かった、あの頃の自分

日本にいた頃の私は、沈黙がとにかく苦手だった。
会話が途切れると「何か言わなきゃ」と焦って、頭の中で言葉を探してしまう。
沈黙は気まずさで、沈黙は失敗で、沈黙は空気が悪くなる予兆だと、どこかで思い込んでいた。

たぶん私は、言葉で埋めないと安心できなかった。
ちゃんと返せない自分がバレるのが怖かったし、変なことを言って笑われるのも怖かった。
だから、うまく話せない時は黙るんじゃなくて、黙らないために頑張っていたんだと思う。

でも海外に来て、言葉が思うように出ない場面が増えたとき、気づいてしまった。
「黙る=負け」みたいに思ってたの、たぶん自分だけだったんだって。

海沿いのベンチで起きた小さな出来事

ある日、海沿いのベンチに座っていた。


予定もなく、ただ風に当たりたかっただけ。
波の音が規則正しく聞こえて、考え事がほどけていく時間。

少し離れたところに、白髪の老人が腰を下ろした。
目が合ったので「Hello」と言おうとして、なぜか言葉が出ない。
代わりに会釈をすると、老人も軽くうなずいた。

それからしばらく、二人とも何も話さなかった。
でも不思議と、沈黙が重くない。
「気まずいから何か話す」じゃなくて、「話さなくても一緒にいられる」沈黙だった。

しばらくして、老人はポケットから小さなパンを取り出し、半分に割って差し出してきた。
私は小さく「Thank you」と言い、老人はまた静かにうなずいた。
言葉はそれだけ。なのに、そのパンはやけに温かかった。

沈黙は、失敗じゃなく「もう一つの会話」

名前も知らない。どこから来た人かも分からない。
たぶん、二度と会わない。
それでも、心が満たされていた。

私はそこで初めて、沈黙を空白じゃなくやり取りとして受け取れた気がする。
言葉がないから、分かり合えないわけじゃない。
むしろ言葉がないからこそ、相手の気配や温度がそのまま伝わることがある。

沈黙って、壁じゃなかった。
それは「ここにいるよ」「大丈夫だよ」を、声じゃなく態度で渡す方法でもあった。

言葉より先に伝わるものがある

日本では、言葉が正しいかどうかが気になっていた。
文法、発音、返しのうまさ。
でもこのベンチの上では、正しさよりも「害がないこと」「優しさがあること」が先に立っていた。

視線、仕草、間(ま)
パンを半分に割る動作ひとつで、
「君がそこにいてもいい」みたいな許可をもらった気がした。

私はずっと、ちゃんと話せない自分を責めていたけど、
本当は話せないよりも、人とつながれないと思い込んでいたことの方が苦しかったのかもしれない。

まとめ:沈黙の国境線を越えた日

老人が立ち上がり、帽子を軽く上げて去っていく背中を見送りながら、胸の奥がじんわり温かくなった。
沈黙は、分断じゃなく、もう一つの対話。
言葉がなくても、気持ちは渡せる。
そしてそれは、言葉がうまくない私にとって、小さな救いだった。

完璧に伝えなくていい。
上手に話せなくてもいい。
それでも世界は、ちゃんと受け取ってくれる瞬間がある。
私はその日、沈黙の国境線をひとつ越えた気がした。

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