【私の趣味のストーリー 28話】

私の趣味のストーリー 裏話

奇跡の翌日は、驚くほど静かだった

最初の一人が来てくれた翌朝。扉を開ける手が、少しだけ軽かった。昨日と同じように、また誰かが来てくれるんじゃないか。そんな期待が、胸の奥で小さく芽を出していた。

でも現実は、驚くほど静かだった。外の光だけが少しずつ強くなっていくのに、店の中は変わらない。カラン、という音は鳴らず、椅子がきしむこともない。聞こえるのは、時計の針と、自分の呼吸だけだった。

会員制。通りすがりがふらっと入ってくる店ではない。そもそも、毎日誰かが来る前提で選んだ形じゃない。頭では分かっていたはずなのに、一度「誰かがいた空間」を知ってしまうと、「誰もいない空間」の静けさは、少しだけ重く感じた。

やることは同じなのに、心だけが違っていた

シャリを炊く。ネタを仕込む。包丁の位置を確かめ、カウンターを拭く。昨日と同じ作業を、昨日と同じ順番で繰り返す。なのに、心の中だけが落ち着かなかった。

「今日も来ないのかな」

言葉にしてしまうと、弱くなる気がして、胸の奥で呟くことすら躊躇した。けれど、その気持ちは消えてくれない。夕方になっても扉は開かず、夜になっても同じだった。売上はゼロ。現実は、容赦なく静かだった。

気づけば、頭の中にいろんな声が浮かんでいた。

会員制は無謀だったんじゃないか。立地が悪いんじゃないか。趣味で店なんて甘いんじゃないか。

誰かに言われたわけじゃない。全部、自分が自分に言っているだけなのに、正論ばかりで、心がじわじわ削れていった。

「辞める」が浮かばなかったのは、意地じゃなかった

不思議なことに、その日に私は「辞めよう」とは思わなかった。苦しいのに、不安なのに、恥ずかしいくらい現実を突きつけられているのに、明日の仕込みをやめる選択肢だけは浮かばなかった。

翌日も、誰も来なかった。次の日も同じだった。三日連続で、扉は一度も開かなかった。さすがに少し笑ってしまった。「……現実って、こうだよな」と。

最初の一人は奇跡だった。でも、奇跡は続かない。それが普通だ。頭のどこかで納得している自分がいた。だからといって、心が楽になるわけではない。むしろ、静けさの中で、じわじわと自信だけが減っていく。

それでも私は、包丁を研ぐ手を止めなかった。理由は、立派なものじゃなかった。根性とか、夢とか、気合いとか、そういう言葉では説明できない。

ただ…「ここに立つ」と決めたのが、昨日の自分だったから。

たった一言を、偶然にしたくなかった

あの人が言ってくれた「美味しいです」という一言。派手な賛辞でも、ドラマみたいな褒め言葉でもない。でも、あの瞬間の温度だけは、嘘じゃなかった。

もし今日やめたら、あの一言までたまたまになる気がした。あの一貫に込めた時間も、震えながら置いた手も、背筋を伸ばした瞬間も、全部が偶然に回収されてしまう。

そう思ったら、辞めるより先に、もう一度仕込もうという気持ちが先に立った。誰にも見られていなくても。評価されなくても。結果が出なくても。ここに立つことだけは裏切りたくなかった。

数字がゼロの日に、心は少しだけ前に進んだ

夜、暖簾を下ろすとき。昨日とは違う感覚があった。「今日は来なかった」ではなく、「今日も、ここに立てた」。売上はゼロでも、自分の中に残る感覚は、昨日より少しだけ確かだった。

続ける理由なんて、最初は弱くていい。

誇れる覚悟じゃなくていい。強い信念じゃなくていい。今日もやった、という事実が、明日を連れてくる。それだけで、人は意外と前に進める。

扉を開けたあの日は始まりだった。でも、誰も来なかった今日こそが、本当のスタートだったのかもしれない。

奇跡の次に来るのは、拍手ではなく静けさだ。けれど、その静けさの中で立ち続けた時間が、あとから「自分の道」になっていく。私はまだ知らない。明日誰が来るのかも、この形が正しいのかも。

それでも確かなことがひとつある。

私は今日、続かなかった日に、続けた。だからこの店は、まだ生きている。

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