夜の静けさは、昼よりも残酷だった
夜の店は、昼よりも静かだった。
昼間はまだ、外を歩く人の足音や、遠くを走る車の音が、かすかに届いてくる。世界と細い糸でつながっている感覚が、まだ残っている。
けれど夜になると、その糸は簡単に切れた。
カウンターに並んだ湯呑み。磨き終えた包丁。誰も座らない椅子。
すべてが「待っている」ようでいて、同時に「もう諦めている」ようにも見えた。
灯りを消せば、すべて終わらせられた
灯りを落とせば、今日という一日は簡単に終わる。
誰にも見られていない。誰に責められることもない。暖簾を下ろし、鍵を閉め、「今日はダメだったな」と呟けば、それで済む。
逃げる理由はいくらでもあった。
三日連続で誰も来ない。四日目も、きっと同じだ。仕込みの材料は減り、家賃は待ってくれず、時間だけが確実に進んでいく。
現実は、派手に崩れない。ただ静かに、可能性を削っていく。
「趣味なんだから」という言葉が、一番刺さった
頭の中で、ある言葉が何度も繰り返された。
「趣味なんだから、無理する必要ないだろ」
たしかにそうだ。生活を賭けているわけじゃない。失敗しても、生きてはいける。
でも、その言葉が一番胸に刺さった。
趣味だからこそ、やめる理由にしてしまえば、すべてが簡単になかったことになる。
頑張った時間も、不安も、勇気を出して扉を開けたあの日も、全部が「やらなくてもよかった話」に変わってしまう。
怖かったのは、誰も来ないことじゃなかった
カウンターに腰を下ろし、私はしばらく動けずにいた。
誰も来ないことよりも、もっと怖いものがあった。
それは、この場所を「なかったこと」にしてしまうこと。
扉を開ける前の自分に戻り、何も始めなかった日常へ、何事もなかった顔で帰っていくこと。
失敗よりも、後悔よりも、それが一番怖かった。
理由は、ただ「やってみたかった」だけだった
店を始めた理由なんて、立派なものじゃない。
成功したかったわけでも、誰かに認められたかったわけでもない。
ただ、やってみたかった。
それだけだった。
その小さな衝動のために、ここまで来た。なら、誰も来ない夜に灯りを消してしまったら、その一歩を踏み出した自分を、自分自身が裏切ることになる。
誰のためでもなく、自分を置き去りにしないために
私は立ち上がり、店の奥のスイッチを見つめた。
指を伸ばせば、すぐに消える灯り。
でも、その手は止まった。
「……今日は、消さない」
誰かのためじゃない。明日の売上のためでもない。
ただ、今日ここに立った自分を、置き去りにしないために。
誰も来なかった夜が、私を少し強くした
暖簾は揺れなかった。扉が開くこともなかった。

それでも、店の灯りは夜の終わりまで点いたままだった。
帰り際、振り返った店内は相変わらず静かだった。
でも、不思議と昨日ほどの重さはなかった。
誰も来ない夜に、灯りを消さなかった。
それだけで、自分の中の何かが、少しだけ強くなった気がした。
続けることは、希望じゃなく覚悟だった
続けることは、希望じゃない。
「いつかうまくいく」という楽観でも、「頑張れば報われる」という幻想でもない。
続けることは、静かな覚悟だった。
誰も来ない日があると知った上で、それでも灯りを点けるという選択。
この店は、客が来た日よりも、誰も来なかった夜に、本当の意味で始まっていたのだと思う。
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