【私の趣味のストーリー 第20話】巣立ちの朝、親方からの最後の一言🍣🌸
「もう、お前がうちで学ぶことはねえ」
数年間の修行の終わりは、拍手も花束もなく、たった一言で静かに告げられました。
嬉しさと寂しさがごちゃ混ぜになった、あの朝の感覚を、今でもはっきり覚えています。
目次
- 1. 修行の終わりは、静かな一言から始まった
- 2. 賄いの一貫に込められた卒業証書
- 3. 受け継いだ包丁と、親方の本当の想い
- 4. 暖簾をくぐった先にあった「再出発」
- 5. 今日のまとめ:親方から受け取った3つの宝物
1. 修行の終わりは、静かな一言から始まった
「もう、お前がうちで学ぶことはねえ」
その朝、親方はいつもと同じように店に立ち、いつもと同じように魚を捌き、いつもと同じように短くそう言いました。
大げさなセリフも、ドラマみたいな演出もゼロ。でも、その一言の重さは、今まで聞いてきたどの叱責よりも、ずっしりと胸に響きました。
最初に店の戸をくぐった日のことを思い出します。
右も左も分からず、米の研ぎ方すらギコチなくて、毎日怒鳴られてばかり。
閉店後、泥だらけのまま土と格闘しながらシャリの握り方を練習していた自分が、急に頭に浮かんできました。
「はい……」
声を出そうとしても、喉がうまく動かない。
それでも何とか絞り出した返事に、親方はふっと目を細めました。そこには、修行の最初の頃に感じていた怖さはなく、静かにこちらを見守るような温かさがありました。
2. 賄いの一貫に込められた卒業証書
その日の賄いは、親方が握った寿司でした。
ネタは、いつもと変わらないマグロの赤身。だけど、あの一貫は、私にとって立派な卒業証書でした。
親方の手のひらの動きは、一切迷いがありません。
シャリの量、指先の圧、ネタの角度。数年間、真後ろから見てきた背中そのままの所作なのに、この日は少しだけ違って見えました。
一口かじると、米粒一つ一つに親方の手の温度が残っているような気がして、ぐっと涙が込み上げてきます。
「こんな寿司を、自分もいつか握れるようになれたんだろうか」
嬉しさと不安が入り混じる中で、気づけば頬をつたうものが止まらなくなっていました。
親方は、その涙には触れません。
ただ、いつもより少しだけゆっくりとした声で、ぽつりと一言。
「……これからは、お前の寿司を握れ」
その言葉は、もう真似するだけの修行生じゃないぞという宣言のようでもありました。
3. 受け継いだ包丁と、親方の本当の想い

賄いが終わると、親方は黙って奥から一本の包丁を持ってきました。
私が修行の最初の頃から使っていた、愛用の出刃包丁です。
刃は新品のようにピカピカに研ぎ上げられ、光を受けて鏡みたいに景色を映していました。
柄の部分には、長年握ってきた自分の指の跡が、うっすらと残っています。
「刃は鈍らせるな。腕も、気持ちもだ」
親方はそう言って、包丁を私に手渡しました。たったそれだけ。
でも、その短い言葉の中に、どれだけの信頼とエールが詰まっていたかは、手に伝わる重さで分かりました。
ここで学んだのは、魚の捌き方だけではありません。
・食材を無駄にしないこと
・客の「うまい」の一言に、全身で向き合うこと
・調子がいい日ほど、丁寧さを忘れないこと
どれも、「寿司屋」だけじゃなく、これからの人生にも持っていける宝物でした。
4. 暖簾をくぐった先にあった「再出発」
「すし⚪︎⚪︎」の暖簾をくぐるとき、私は新しい白衣に袖を通していました。
腰には、親方から受け取った出刃包丁。
商店街の朝日はまぶしくて、久しぶりに見た空の青さがやけに鮮やかだったのを覚えています。
数年前、合羽橋で初めて包丁を買ったとき。
あのときも胸が高鳴っていたけれど、今日のドキドキは、それとは少し違いました。
「ここからは、自分の責任で握っていくんだ」
そんな覚悟が、足元からじわっと湧き上がってきます。
頭の中で、親方の声が繰り返されます。
「焦るな。だが、止まるな」
この言葉は、技術の話だけじゃない。
失敗してもいい。でも、立ち止まって諦めるな。
一歩ずつでもいいから、前に進め。
そう背中を押してくれているように感じました。
暖簾をくぐった先にあったのは、「終わり」ではなく、「再出発」。
修行は区切りを迎えたけれど、職人としての旅は、ここからようやく本番が始まるのだと思いました。

5. 今日のまとめ:親方から受け取った3つの宝物
この修行の数年間で、親方から受け取ったものを一言でまとめるのは難しいけれど、あえて整理するなら、こうなります。
- 技術:魚の見極め方、シャリの扱い方、握りの所作
- 心構え:食材とお客さんへの敬意、「焦るな、止まるな」という姿勢
- そして、背中:言葉よりも雄弁な、職人としての生き方そのもの
巣立ちの朝、親方から渡されたのは研ぎ澄まされた一本の包丁でした。
でも本当は、その刃の向こう側に、親方の時間と想いと誇りが、ぎゅっと詰まっていたのだと思います。
ここから先、私は自分の店で、自分の寿司を握っていく。
けれどどんな場所に立っていても、手のひらの中には必ず、あの日の親方の一言が一緒にあります。
「焦るな。だが、止まるな」
この言葉をお守りに、私はこれからも、もう一度、何度でも、何度でも「再出発」していくのだと思います。
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