夢を形に、カウンター越しの約束
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物件探しが「夢探し」に変わった日
親方の元を巣立ってから、私は本格的に自分の店を持つ準備に動き始めた。
数年間の修行で身につけた技術、寿司職人としての哲学、そして「誰かの人生を一皿で応援したい」という想い。
それらを注ぎ込める場所が、どうしても必要だった。
ふたたび始まった物件探しは、以前とはまったく違う景色に見えた。
独学の延長で場所を探していた頃の私は、
「家賃はいくらか」「駅から何分か」「広さは十分か」
そんな条件ばかりを見ていた。
けれど今は違う。
物件の情報を見る前に、私は必ずこう自分に問いかけていた。
「この通りなら、どんなお客さんが来るんだろう?」
「この窓から見える景色は、どんな食卓を彩るだろう?」
「ここで、どんな物語が生まれるだろう?」
親方から教わった「客との一期一会」という言葉が、物件探しの軸になっていた。
ただ店を開く場所ではなく、
「誰かの再出発を、そっと後押しできる場所」を探しているような感覚だった。
不動産屋の担当者も、以前とは態度が違って見えた。
真っ直ぐな目で夢を語る私に、
資料だけではない情報
「この通りの人の流れ」や「昔の商店街の雰囲気」まで、丁寧に教えてくれる人も現れた。
古い商店街の一角で出会った、あの物件
いくつもの候補を見て回ったある日。
一枚の図面に、見覚えのある間取りを見つけた。
駅から少し離れた、古い商店街の一角。
数年前、一度候補に上がったことがある物件だった。

元・喫茶店の小さな店舗。
当時の私は、
- 「古い」
- 「手入れが大変そう」
- 「もう少し駅に近い方がいいかも」
そんな理由で、ほとんど迷わず候補から外してしまっていた。
けれど、数年の修行を経た今の私は、まったく違うものを見ていた。
レトロな外観は、むしろあたたかみのある顔に見えた。
手入れが必要な内装は、自分の手で店を育てていける「余白」に見えた。
店内に差し込む夕日を想像する。
カウンターの上に置かれた寿司。
自分が焼いた器たち。
それらを、やさしいオレンジ色の光が包み込んでいる光景が、頭の中にはっきり浮かんだ。
「ここだ……」
以前はただの「古い物件」としか見えなかった場所が、
今の私には、「物語の舞台」として見えていた。
会員制の小さな寿司屋というコンセプト
その物件を前にしたとき、頭の中に一気にコンセプトが流れ込んできた。
「ここなら、お客さんの顔が全部見渡せる」
「カウンター越しに、ひとりひとりの表情をちゃんと見ながら握れる」
「静かに、でも確かに誰かの節目に寄り添える店にできる」
派手な看板や、大きな席数はいらない。
必要なのは、目の前のお客さんとしっかり向き合える距離感だけだった。
そこで浮かんだのが、「会員制の小さな寿司屋」という形だった。
・席数は多くなくていい。
・予約制で、その日来る顔ぶれをあらかじめイメージしておく。
・「今日はどんな一皿が、この人の背中を押せるだろう」と考えながら仕込みをする。
私が作ってきた器たちも、ここでようやく出番を迎える。
修行の合間に、泥だらけになりながら焼き続けてきた皿や小鉢。
あのときは、ただがむしゃらに作っていたそれらが、今ははっきりと「店の景色」として立ち上がってくる。

「ここで、誰かの再出発を祝う寿司を握りたい」
「ここで、人生の節目にふっと寄り道できる場所を作りたい」
そう思った瞬間、この物件はもう「候補」ではなく、
心の中で「ここしかない」という確信に変わっていた。
カウンター越しに交わした、まだ見ぬ約束
もちろん、現実的な不安もあった。
修行時代に必死で貯めたお金は、決して十分とは言えない。
内装工事、設備、家賃、器、食材
考えるほど、数字は重くのしかかってくる。
それでも、不思議と心は折れなかった。
親方の言葉が、何度も頭の中でリフレインしていたからだ。
「焦るな。だが、止まるな」
あの言葉は、技術のことだけを指していたわけじゃなかったのかもしれない。
自分の人生をどう歩くか、そのスピードと覚悟についてのメッセージでもあったのだと、今は思う。
契約書にサインをした帰り道、
シャッターが閉まったままの店の前に立って、そっと頭を下げた。
「ここからよろしくお願いします」
まだ誰も座っていないカウンター。
まだ一貫も握っていない寿司。
まだ誰の記憶にも残っていない店。
それでも私は、はっきりと感じていた。
ここにはいつか、「ただいま」と言ってくれる常連さんがいて、
「今日、実は大事な報告があってさ」と小さく笑うお客さんがいる未来がある、と。
これは、まだ誰とも交わしていない約束。
けれど、確かにここで待っていると決めた約束だ。
私の「再出発」は、合羽橋で包丁を買ったあの日から始まり、
親方の店で鍛えられ、この小さな物件でようやく形になろうとしている。
シャッターの前で深呼吸をひとつ。
私は心の中で、見ぬお客さんたちに挨拶をした。
「ここから先は、カウンターの向こう側で会いましょう」
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