会員制にした理由は、格好つけじゃなかった

扉を開けた瞬間に世界が変わる。そんな派手な展開は、現実には起きない。むしろ逆で、扉を開けた直後ほど、静けさが増す。
この店は会員制。通りすがりの人がふらっと入ってくることはない。だから開店しても、街の足音だけが通り過ぎていく。分かってた。分かってたのに、心はちゃんと焦る。
会員制にしたのは、特別感を出したかったからじゃない。誰でもいいから来てほしい、じゃなくて、「ここに来る」と決めた人と向き合いたかった。数を追うより、目の前の一人を丁寧に迎える場所にしたかった。…そう言い切りたかった。でも本音は、怖かったんだと思う。誰にでも開く店で、否定されるのが。
「誰も来なかったら」が、胸の奥で膨らむ
開店してしばらく、何も起きない。カウンターを拭く。包丁の位置を確かめる。シャリの温度を指先で感じ直す。やることは全部やったのに、手だけが落ち着かない。
「もし、誰も来なかったら」
この言葉は、弱さじゃなくて現実だ。会員制なら尚更。来ない日は来ない。奇跡は毎日起きない。それを理解してるのに、今日だけは、たった一人でいいから来てほしかった。
それは売上のためじゃない。自分の選択が、空振りだったと確定するのが怖かった。ここまで来た時間も、迷い続けた夜も、仕込みで埋まった指先も、「全部、勘違いでした」と言われるみたいで。
カラン、という音が、店の空気を変えた
そのとき、小さな音が鳴った。扉の鈴が鳴る音。風じゃない。人だ。扉の前に、ひとりの影が立っていた。
会員だ。この店を知っていて、この扉を開けると決めた人。
「いらっしゃいませ」
声が少しだけ震えた。情けないなと思った。でも、震えるのは怖いからじゃなくて、ちゃんと向き合いたいからだ。ここが、自分の戦場なんだと身体が分かっていた。
椅子が小さく軋んで、誰かが座る音がした。たったそれだけで、空間が店になる。さっきまでの静けさが、「誰もいない」から「誰かがいる」に変わる。世界は変わらないのに、自分の内側だけが、確かに動く。
「美味しいです」は、拍手より重かった
一貫を置く。完璧かどうかは分からない。理想通りかも分からない。ただ、自分の全力だけは嘘をついていない。仕込みも、迷いも、不安も、全部ここに乗っている。
その人は一瞬箸を止めて、ゆっくり頷いた。
「…美味しいです」

派手じゃない。だけど、胸の奥に落ちてきた。ああ、間違ってなかった。会員制にしたことも、扉を開けたことも、今日ここに立ったことも。
最初の一人は、売上でも、評価でもなく、「この道を選んでいい」という許可だった。誰かがくれた許可じゃない。自分が自分に出した許可を、目の前の一人がそっと肯定してくれた。それが、泣きたくなるほど効いた。
静けさが戻っても、もう同じじゃない
その人が帰ったあと、店はまた静かになった。でも、さっきまでの静けさとは違う。ここはもう「誰もいない場所」じゃない。「誰かが時間を過ごした場所」になった。
もちろん、現実は続く。明日も来ないかもしれない。会員制という形が、自分の首を絞める日もあるだろう。それでも、今日一日で分かったことがある。
扉を開けた朝は、世界を変えなかった。でも、最初の一人が入ってきた瞬間、少なくとも自分の中の世界は変わった。怖さは消えない。でも、怖さを抱えたままでも、人は前に進める。むしろ、抱えているからこそ、その一歩には意味が宿る。
そしてたぶん、この店は、そういう一歩の積み重ねでできていく。奇跡が続く店じゃない。続けた日々が、店になる。
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