第1話:出発の日、あの部屋に残した静かなさよなら
目次
震えるドアの音から始まった朝
バタンッ。
その音を合図に、長く住んだ部屋との関係が終わった。閉めたドアの向こう側には、過去の自分がまだ座っている気がした。見慣れたはずの廊下が、今日は少しだけ違う。
「本当に行くんだな」
キャリーケースの取っ手を握りながら、心の中でつぶやく。外はまだ暗く、アスファルトは夜の冷たさを残したまま。眠った街の静けさが、背中を押してくれるようだった。
同じ景色なのに、旅立つ日はどうしてこうも特別に見えるのだろう。
机の上に残した一通の手紙
出発前夜、机の上に一枚の手紙を置いた。宛先は誰でもなく、過去の自分。

『もう、無理しなくていい。ちゃんと生きてるだけで、十分だよ。』
その言葉を書いた瞬間、涙がこぼれた。あの頃、誰よりも自分自身が欲していた言葉だったから。
手紙を残すというより、「あの日の自分」をそっと抱きしめて部屋に置いてきた、そんな感覚だった。
部屋を出るとき、棚の上にうっすら積もった埃さえ、愛おしく感じた。
タクシーの窓に映る「過去」
タクシーのドアが閉まる音は、始まりのチャイムみたいだった。走り出す車内で、窓越しに流れる街並みを眺める。
信号の赤と青がガラスに反射し、涙の膜越しにゆらゆら揺れた。見慣れた電柱、通い慣れたコンビニ、何度も愚痴をこぼした帰り道。
どの景色も、もう過去の一部になっていく。
でも、不思議と怖くなかった。むしろ、心の奥で小さくこう呟く自分がいた。
「ここから、もう一度始めよう」
空港に差し込む新しい光
空港に到着する頃、東の空が白んでいった。夜明け前の薄い光は、まるで世界からの「おはよう」のようだった。

チェックインカウンターでスタッフが微笑み、
「Good morning.」
たったそれだけの言葉なのに、胸がふっと軽くなる。世界は意外と、優しいのかもしれない。
スーツケースを預け、深呼吸をする。過去と未来の境界線に立つあの瞬間、音のない拍手が聞こえたような気がした。
あの部屋に置いてきた手紙の「続き」を、いつか書けるだろうか。
その答えは、この先の旅に委ねることにした。
✈️次回予告
第2話:空港の朝、さよならを言えなかった理由
言葉にならなかった想いほど、心に深く残る。
「ストレスで潰されそうになったシリーズ(海外編)」は毎週更新予定。
あなたの旅や人生にも、そっと寄り添えますように。
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